「私には共感性がありません」という独白的な話ではなく、「一般的に、人は他人の気持ちなんてわからない」のだという話です
「他人の気持ちなどわからない」というところから発するヒューマニズムです
「他人の気持ちなどわからない」
義務教育時代、道徳という科目でモラルを教えられた記憶がある
感動系のエピソードを読んで思いやりのある大人に育ってもらおうとするようなものだった
なんとなく辛気臭く厳粛な雰囲気の教室で、おそらく私を含めたほとんど全員が「ふーーん」くらいの反応で受け入れていた
人が何をされた時にどう感じるか考えようね!って言うんだったら、なぜ相手の立場に立って想像力を働かせなければいけないのかという根本的な核心を叩き込んでおくべきなんじゃないかと思う
つまり「他人の気持ちなんて絶対にわからない」という一大事を周知徹底させるべきなのだ
共感への警戒
気の置けない間柄の人といると、きっとどんな状況でも自分と同じ考えをして自分と同じ選択をしてくれるはずだと思いたくなる
近親な存在で、常にずっと自分の味方でいてくれると
これだけ分かり合えてるんだから相手の心も自分と一緒だという思いが強まる
でも他人は他人であり、本当に感情を共有できているという確証はない
いや私にだって疑いの余地無く同じ感情を抱いていると感じる事もあるけど
一緒に腹を抱えて大笑いしてる時とか
その瞬間的な共感の積み重ねを根拠に完全に分かり合えてると思っていると、いつか無駄にガッカリすることになるかもしれない
親友や家族がある日「このツボを購入すれば立ち所に億万長者になれる」と力説してきたらどう思うだろう。ショックを受けるかな
本来相手が自分とかけ離れた人間で、自分には全く理解できないような一面を持っているという事実はガッカリするような事ではない
(悪意がなければ)何も裏切っていないし、何も変わっていない
ガッカリしたとすれば、自分が勝手に誤解に基づいて期待してしまっていただけだと思う
見せかけの共感と思いやり
思うまま素直に感情を言動で表現しているように見える人
とり繕って我慢してでも他人に優しくしているように見える人
色々いるけど結局「そう見える」という憶測の域は絶対に出られない
腹の中で何を思っているのか、腑分けしたってわからない
だからこそ「共感」と言う心の共有の錯誤は美しく、何よりも希われる
真に相手の立場になって考えるには、自分の中にある「相手にも同じ気持ちであってほしい」と言う欲求を自覚した上でそれを冷静に考慮しなければ不徹底ではなかろうか?
一見冷淡に聞こえるかもしれないけど『相手は所詮他人であり、確証を持って完璧に“気持ちがわかる”事などあり得ない』と言う前提を肝に銘じておいても良いと思う
そうであるからこそ可能な限り相手の事を想像し、歩み寄ろうという気になるし
そしてアテが外れても相手が「他人」であり自分が望むような人間じゃなかった事実におおらかでいられるだろう
ガッカリしたりガッカリさせたりせずに済む
おわりに
そういう感覚がみんなにあれば「あのヒトもきっと自分と同じ気持ちに違いない」って考えに基づいたあらゆる面倒は回避されるんじゃないかしら
とにかく“どうして欲しいのか”も“どうして欲しくないのか”も自分にはわからないという謙虚な気持ちに立って当人の意思表示を優先させるのが無難ですよね
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